ドイデンキの沿革

私たちが目指すのは『より良い世界』。
世界中の人々が『幸せ』になること、『貧困』の解消、そして『地球環境』の保全。

プロローグ:土井電機のは‍‍‍じまり

土井電機株式会社が創立したのは1917年。史上最大の戦争の1つ第一次世界大戦(1914年7月28日から1918年11月11日)‍‍‍‍‍‍のさなかでした。

7千万以上の軍人が動員され、史上最大の戦争の1つとなった。(割愛)。史上死亡者数の最も多い戦争の1つであり、この戦争は多くの参戦国にお‍‍‍ける革命などの政治変革を引き起こした。第一次世界大戦 ― Wikipediaより

明治維新後。当時の日本は急速に近代化を進めていました。
創業者である土井行雄は大阪川口の生まれで、土岐氏の血を代々受け継ぐ土井氏の家系に生まれました。土井行雄は11歳のとき、職人としての腕を磨くため大阪の工場に丁稚奉公(でっちぼうこう)し、修行を始めました。その後、29歳になり独立。東京へ上京し、大正6年(1917年9月29日)、芝(現在の白金3丁目)に土井電機株式会社の前身である土井電機製作所を創立しました。


土井家の家系図:土井電機の創業者‍‍‍ 土井行雄(1888-1966)

「貢献すべきは”日本の近代化”だ」

土井行雄は、「日本の近代化に平和の技術で貢献する」ことを目指し、当時の国営企業に土井電機の最先端技術を供給しました。

日本電信電話公社
…現在の日本電信電話株式会社 (NTT)、NTTグループの前身。土井電機は接続端子函をヒューズ(独自特許品)を供給しました。
電力会社(東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力)
…太平洋戦争前に存在した日本の電力会社。土井電機はヒューズ(独自特許品)‍‍‍‍‍‍を供給しまし‍‍‍た。
日本国有鉄道
‍‍‍‍‍‍…現在のJRグループ。国鉄車両にヒューズ(独自‍‍‍特許品‍‍‍)を供給しました。

‍‍‍第‍‍‍二‍‍‍次世界大‍‍‍戦をこえて

第2次世界大戦中、土井電機は日本国家を支える重要な‍‍‍企業のひとつでした。‍‍‍

‍‍‍エピソード1:東京大空襲で‍‍‍の奇跡

‍‍‍1944年から1945年にかけて東京では度重なる‍‍‍空爆が激しさを増していました。土井電機の事業存続自体は困難な状況でした。1945年の空襲では100万人以上の方が亡くなられました。東京中心部にあった土井電機社屋も戦火の中にありました。

終戦後、疎開先から恵比寿駅‍‍‍のホームに着いた。見渡す限り、焼け野原で何も無かった。「もうダメだな」と思いながら、遠くの土井電機のある方に目を凝らした。すると、ひとつだけポツンと建物が見えた(脚注: 約3km先)。それは土井電機の社屋だった。まさに奇跡だった。‍‍‍
―土井知幸(当時小学生)土井電機株式会社 3代目代表取締役

‍‍‍エピソード2:命を繋‍‍‍いでこそ

‍‍‍第二次世界大戦中、土井知幸の父であり 後に土井電機2代目社‍‍‍長となる土井行正は徴兵制度により満州・樺太に出兵し、最前線にいました。1945年の終戦直後、武装解除され投降した約57万5千人に上る日本軍捕虜が、ソビエト連邦に捕らえられました。そしてシベリアなどへ労働力として移送隔離された後に、長期にわたる苛烈な抑留生活と奴隷的強制労働を強いられました。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万5千人が死亡しました(参考:Wikipedia「シベリア抑留」)。

終戦後、土井和子(妻)は、土井行正の帰りを待っていました。しかし、待っていても帰ってきませんでした。数年の月日が流れ、諦め掛けていたある日、土井行正が千葉の病院で療養中という知らせが入ってきました。

土井行正は1945年の終戦直前、肺炎を患い、やむなく戦線から離脱しました。その年終戦を迎えたため、シベリア抑留はギリギリのところで免れたのでした。偶然の出来事でした。戦後の大混乱の中、土井行正は療養を続けながら、家族との再開を果たすための努力を続けていたのでした。

‍‍‍戦後の日本を支え続ける‍‍‍

土井電機は、東洋の奇跡と言われる戦後の日本の発展を、通信技術、電力技術で支え続けました。土井電機の社員の一人一人の夢は、日本人が豊かな暮らしをすること、そして日本人が幸せを感じることでした。

土井電機の技術者たちは、日本の発展を夢見て、昼も夜もなく働き続けました。

‍‍‍電電公社分‍‍‍割民営化

‍‍‍戦後の日本は、戦後の焼け野原から復興し、世界水準の経済へと階‍‍‍段を駆け上がりました。

1985年(昭和60年)に公衆電気通信法は電気通信事業法に改正された。これにより、同公社の民営化と、電気通信事業への新規参入、および電話機や回線利用制度の自由化が認められた。同公社の民営化までは、国内の通信(電報、専用線など)、通話(電話)業務を単独で行ってきた。これに伴‍‍‍い、1987年(昭和62年)に第二電電、日本テレコム、日本高速通信の3社が長距離電話サービスに参入した。電話事業の独占的環境にあった量的拡大の時代は、競争環境下における質的高度化の時代というステージに移行した。 日本電信電話公社 ― Wikipediaより

土井電機を取り巻く時代は変化しつつありました。

‍‍‍以前は官需(国の仕事)として、通信産業の仕事が大半を占めていました。その後、電電公社の分割民営化は、土井電機のあり方を考えるきっかけとなりました。経済環境では、日本経済の急速な発展が進んでいました。常に「国の発展の為に」働いてきた土井電機。3代目‍‍‍‍‍‍社長である土井知幸は、バブル全盛の次期に、時代と逆行し、事業の大幅縮小へと舵を切りました。それまで長年担ってきた”土井電機の役割”が変わってきたと感じたからでした。

時代の趨勢(すうせい)とともに、日本を支え続けた土井電機の役割が模索される時代へと変化しつつありました。そして、日本はバブル経済と呼ばれる時代へと突入しました。

‍‍‍ジャパン・アズ・ナ‍‍‍ンバーワン

戦後の日本は目覚ましく発展し、その発展は「東洋の奇跡」、そして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれたほどでした。

ある資産に対する消費需要が増加し、供給が逼迫する局面においては、資産の買い手数が売り手数を上回り、資産価格が上昇する。
資産価格が上昇する局面においては、資産転売による売買益(キャピタル・ゲイン)を求める投資家・金融機関による資産への投資が行われるため、さらに資産価格が上昇する。
資産価格の上昇を見越した消費者による駆け込み需要が消費需要を一段と増加させ、時価資産増加による帳簿上の資産増加を要因として、消費に前向きになった消費者による消費需要の増加、投資家による投資需要の増加が発生し、連鎖的に資産価格が上昇するという、資産のインフレスパイラルが生まれる。この時期がバブルである バブル経済 ―
Wikipediaより

バブル崩壊後、同業者の中には、倒産・廃業が数多く見られました。土井電機はバブル期に事業の大幅縮小を行なった結果、その影響を受けることはほとんどありませんでした。

土井電機の役割とは

IoTを通じて
『貧困の解消』、『平和の実現』、そして『地球環境の保全』を目指す。

2010年代。世界は物質的な豊かさを求める時代から、精神的な豊かさを求める時代へと変わりました。

1917年、創業者である土井行雄の夢である、
「日本人の暮らしを豊かにすること」「日本の平和に貢献すること」
から出発した土井電機。

2017年、創業100年目を迎えた土井電機は、転換の時期でした。

‍‍‍‍‍‍2018年からの100年間を前に、土井電機は、株式会社DOI HOLDINGSと会社名が変更されました。そして 「貧困の解消」「豊かさの実現」「地球環境の保全」という夢を持ちました。IoTとして、外国人人材紹介サービスの提供を通じて目指すのは、”世界の人々”と”地球”の「幸せ」です。

エピローグ:これからの100年に向けて

戦争、経済の発展をくぐり抜けて到達した境地。

それは、ドイデンキが、世界の人々を幸せにし、地球環境を守ることをゴールとして、新たなサービスを手がけることです。

わたしたちは、今世界に目を向けています。

私たちDOI.HOLDINGS Inc.のこれからの100年にどうかご期待ください。