“100年の歴史”

土井電機の創世記 インタビュー

土井電機の創業は、1917年(大正6年)10月1日

時代は第一次世界大戦末期、直接の戦地とならなかった日本はアメリカとともに物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は大きく発展していました。そのような時代のなかで、東京・白金の地に創業者である土井行雄は、通信機器部品の製造を目的とした工場を構えたのです。

創業の翌年、第一次世界大戦が終結すると世界的に景気が悪化。さらに1923年(大正12年)には関東大震災が発生するなど、日本は混乱の時代を迎えます。しかし、行雄は通信省の指定登録を受け配線かんを納入するなどして、事業を拡張していきました。

そして、時代は第二次世界大戦へ

行雄の息子・行正も戦地へ向かうことになりました。博識ながらも病弱だった行正は、樺太の戦地で病気を患い闘病生活を送ることになります。

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。復興に向けて歩み始めようとしていた家族は、行正はシベリアに抑留されたものと考え始めていました。

  

ところが、行正は日本に帰国していました。シベリアに抑留される直前に病院で検査をすると抑留をすんでの所で逃れ、日本へ帰還していたのでした。東京に戻ってきた行正は、1948年(昭和23年)法人組織に変更し、土井電機株式会社と改称。行雄の跡を継いで二代目社長に就任したのです。

 

 

復興から高度成長時代へ

戦後間もなく

土井電機は、電電公社(日本電信電話公社)にヒューズや端子かん、配線かんなどを納入し始めます。受注が多くなってくると、電電公社専用の工場を新設するなど、行正は戦略的に事業拡張を進めていきました。

当時使っていたプレス加工機や旋盤などの工作機械は、ほとんどが自作。会長に就任した行雄を中心に、これまで培ったノウハウとアイデアをもとに、自分たちが使うものは自分たちで製造し、製品を作り上げていました。

高度経済成長を迎えると

猫の手も借りたくなるほど仕事が増えていきます。集団就職で上京してきた人たちを迎え入れ、設備は常にフル稼働。この時代から自作設備の自動化も進めていきました。

また、試験研究室を木造工場の2階に新設し、高電圧をかけてヒューズの耐久試験を繰り返すなど、品質を高めていくことにも努めていきました。

こうした努力が、「土井さんの製品は壊れない」と取引先から定評となり、多くの仕事の受注にもつながったのです。

 

 

木造2階建ての工場環境

従業員も全員、自社製品の品質に誇りを持って仕事をしていました。当時働いていた従業員は、10代20代の方が中心。昼間は都電や自転車に乗って工場で働き、夜は定時制高校や専門学校に通う人も少なくありませんでした。

潤滑油や醤油油の匂いが充満する木造2階建ての工場は、夏はサウナのように暑く、冬は冷蔵庫のなかにいるような寒さだったと、当時を知る従業員は語ります。「特に冬は厳しかった。手袋をしたかった機械に巻き込まれる危険があるので、寒くても使えない。昼休みになるとだるまストーブを皆で囲み、暖をとっていましたね」。

今と比べれば厳しい労働環境だったなか、会長の行雄はよく工場内の見回りに来ていたようです。従業員に対し、行雄が口を酸っぱくして言っていた言葉があります。

「切子、あか、真鍮(しんちゅう)、それらとゴミは別にしろ」

”切子”とは材料を削った後の廃材や粉、”あか”とは銅版のこと。つまり、ヒューズや端子かんの材料となるものは、例え廃材であっても捨てるなと言っていたのです。実はこの頃から、行雄と行正はリサイクルの観念を大切にしていました。

毎日何トンもの材料を使って製造をし続けていたため、廃材も大量に出てきます。これらの廃材を分別し、必要とする業者へ売るなど、環境保全にも努めていました。

また、工場内はゴミひとつ落ちていない、きれいな環境づくりにも力を入れていました。その精神は、今もなお環境改善活動として引き継がれています。

「品質」「社員の満足度」の双方を高める経営

社員旅行

土井電機では多忙の合間を縫って、年に何度か関東各地の温泉地や海外などへ社員旅行を実施しています。社員にとってそれは楽しみでもあり、社長・行正と杯を交わしながらコミュニケーションが取れる場でもありました。宴会場では全員で十日町小唄を手拍子しながら歌い、日頃の疲れをいやしていたのです。

社員旅行以外でも、等々力渓谷で花見をするなどレクリエーションも行っていました。行正の妻が手作り料理を持って、息抜きとなる機会を設けていたのです。

 

 

このほかにも、正月休みに仲間たちとスキーに行くなど、和気あいあいとした仲間意識が土井電機にはあります。「土井電機の社員は、とてもまとまりのある集団なんだよね。仕事終わりに皆で飲みに行くと、後から社長が合流して一緒に飲んだりして」。社長から社員まで、一丸となれる集団。それも土井電機の強みと なっていきます。

1981年、本社屋を新築

木造だった工場から鉄筋コンクリートの工場になり、環境は大きく改善しました。これを機に三代目・知幸が社長に就任します。

80年代後半にはバブル期を迎え、日本経済は空前の好景気となりますが、製造業にとっては厳しい冬の時代に突入します。人件費の安い海外に生産設備を移転させ、国内の製造業は空洞化していきました。土井電機も同じ環境にあり、企業の成長を支えてきた熟練の社員たちも時代の変化に応えられず現場を去っていきました。こうしたなか、衛星外部アンテナの製造や部品・素材リユースなど新しい事業にも着手するなど、ニーズにあわせながら事業拡大・転換は続けていきます。

 

 

一方で、半世紀近くにわたって土井電機自慢の”優れたワザ”を守り続けている現役社員たちは、「ここは居心地がいい。いつでも今がいいと思える会社ですね」と語ります。

時代の変化とニーズに応じながら、品質と社員の満足度を常に高め続けてきたことが、100年もの長きにわたって事業を続けてこられた土井電機の力の源になっているのです。

【インタビュー対象 : 土井電機株式会社 平林・薄根】